恋しないとダメなの

 脱却したい。何からか?

 

「恋愛」から。

 

大学に入って一年と少し。正直、普通にいけば好きな人とか彼氏とかできると思ってた。中高女子校だったから、共学に憧れもあった。青春したいって思ってた。

 

でも、実際、何もなかった。

 

いや何もってことはさすがにないけど。付き合う、とかにはならなかった。そして最近、なんか恋愛そのものに疲れてきた。いいじゃんぼっちでも。

 

男子は可愛い子が好きだけど、私はそれほど顔が可愛くないし。

飲みの席で、恋バナで盛り上がってるのを聞いて、焦りを感じるのも面倒くさい。

サークルで、○○さんいいじゃん、いきなよ~とか言われるのも萎える。

恋人がいるほうが、いたことあるほうがかっこいい、みたいなの。

分かるよ、分かるけど。

私はもういいです。おりたいです。

 

聞き役に回るんで。もう無理に恋できません。はい。

つまり、負け犬です。遠吠えしてます。

あれはすっぱい葡萄だから、届かなくても悔しくありません。

 

高校の頃は、恋人がいないことなんて、なんでもなかったのに。

大学では、恋人いないだけで自己肯定感下がることになるのなんでだろうな。

 

もういいや、自分のペースで、いつか恋ができたらいいね。それだけ。

 

また来るね。

いいこと聞いた

ブログって、書こう書こうと思ってても、課題とかに追われてるとつい後回しにしちゃうよねえ。習慣化できればいいんだけど。

 

以前聞いた時印象に残って、最近ふと思い出した言葉がある。

高校生の頃。塾の夏期講習、世界史の授業だった。

 

江戸末期、日本や中国は西洋の脅威に直面した。

アヘン戦争、清はイギリスに大敗。既存の中華秩序の崩壊。

唐突に結ばされた不平等条約

 

このままじゃいけない。西洋列強に肩を並べないと、文明化しないと、不平等条約なんとかしないと、列強に勝たないと。

だから、西洋に近づき、技術や制度を取り入れた。

 

「強い敵を倒したいなら、その敵に近づき、模倣する」

○○に勝ちたいから○○のようになる。

 

これを聞いた時、目から鱗だった。でも、すごく納得した。

漫画とかでよくあるよね。怪物を倒すために、その怪物の力を奪って武器としてこっちが使うやつ。

東京喰種とか、進撃の巨人とか。

勝ちたいから、それに近づく。近づいて利用する。それでしか勝てない。

 

清は日清戦争に負けたあと、積極的に学生を「日本」に送った。

なんでだろう、って思ってた。わざわざ自分たちを負かした国に、って。

勝ちたいからだ。盗みたいからだ。

 

面白い。

逃げちゃだめなんだ。相手と違う方法で戦う、とかじゃないんだ。

同じ土俵に立つんだ。敵からこそ学ぶんだ。

 

いいこと聞いた。

忘れない。だからここに書いておく。

 

また来るね。

おとなの世界

最近、大学に入ってよかったと思うことがある。

すごくありきたりなんだけど、

「様々な分野で活躍されている社会人の話が聞けること」

 

両親は同じ業種の公務員だし、あんまり民間の会社のお話を聞く機会って今までなかった。

だから、とても新鮮。

なんだろう、会社って、おとなの世界って、ただ生きるために働く人たちばっかりなんだと思ってた。給料のためだけに仕事して、それなりに自負はあるけど、やりがいはなくて、みたいな。

会社なんて利益追求のためにやってるんだろうって。

 

だから、私にとって社会にでることは憂鬱なことだった。

でも、講義のゲストスピーカーや、サークルのOBOGさんのお話聞いて、社会ってそれほどつまんないところでもないのかもしれないなって。

目の前の大人は楽しそうにしてるから。

やりがいをもって、成長を目指して、社会をちょっとでもよくしようとしていて。

 

社会はこういう大人で回されているのかもしれないと思った。

製造業、コンサル業、IT関連業、製薬会社、商社、棋士、起業家とかとか。

いろんな人に会えた。それがすごい。高校の頃は考えもできなかったな。

 

こういう会社なら就職したいな、働きたいな、と思えるところにもぼちぼち出会えて、ちょっとだけ、人生が楽しみになったよね。

 

また来るね。

人生の夏休み

大学生ってほんっとうになにもない。特に社会的責任もなく、なあなあに授業らしきものを聞いてるだけで「大学生」という称号を保持できるの虚無じゃない?

人生の夏休み、って表現、ほんとそれなすぎる。

 

「夏休み」だから宿題的なものはあるんだろう。

サークル、バイト、インターン、資格。なにか一つ頑張りましょうね、みたいな宿題。

就職で聞かれるから。

 

でも今コロナのせいで、サークルもないし、バイトも雇ってもらえないし頑張ることがないんだよねえ。いや、見つけてないだけだろうけど。

 

全体的に、虚無。やる気起きない。なのに状況がそれを許してる。気持ち悪い。大学生なんて、なんのためにあるんだ。行き先がわからない。漠然と不安。

 

また来るね。

夫婦別姓

常々、思っていることがある。

「私が結婚するまでに、夫婦別姓にならないかなあ?」

 

私は完全に夫婦別姓賛成派である。

理由は簡単、今の名字が好きだから。結婚する、という理由で失いたくない。

 

結構珍しい名字なんだ、初対面では必ず言われる。小さいころからそうだった。今では立派に私のアイデンティティの一つになってる。名前より、名字で呼ばれるほうが嬉しい、とは言いすぎかもしれないけど。

大体私のような若者から見ればおかしな話だ。結婚したら女性は名字を変えるものだ、なんて。合理的な理由がなにもないじゃないか。家制度とかなんじゃそれ。生まれたときの名前で生きて、死にたい。当たり前の感情ではないのか。

そもそも生まれたときは「名字」に合うように「名前」が付けられているんだ。他の名字に合うとは限らないじゃないか。

最初にこういった疑問を感じたのは、小学生のとき。友達がおかあさんの再婚により名字がかわることになった。せめて小学校卒業までは今の名字でいたい、と言ったけど「そういうものだから」とあしらわれた、と話してくれた。

 「(おかしくない?)」口に出さずとも思った。

 なにが「そういうもの」なの?

どうしてあの子は自分の名前すら好きに決められないの?

名字が変わることが、どれくらい子供にとって大きいことかわかってるの?

連れのいない再婚相手のほうが名字を変えてくれてもよかったんじゃないの?

 「男」だから?名字を変える負担を一方的におしつけていいの?ずるくない?

そもそも何で結婚すると名字を一緒にしないといけないの?

 

以前読んだファンタジー小説。世界を我がものにしようとする異界の王を倒す唯一の方法は「名前を呼ぶこと」だった。そういえばデスノートもそんな感じだ。

名前って大事だよ。その人そのものだもん。最初に与えられる、自分を表す言葉。

 

 結婚はしたい、でも名字を変えるのに抵抗がある。同じくらい、相手の名字も変えたくない。あーあ、結婚できないかもなあ、夫婦別姓にならないかなああ。

結婚して名字変えるのが夢!って友達もいる。それもありだよね。

変える、変えないを選ぶ自由がほしい。切実に。

 

 じゃあまた。

 

 

勉強

大学の勉強って、明確な答えがなさすぎる。

 

どうして、一つの単語の明確な定義づけすらできないのか。高校までならこの言葉の意味は、この本に書いてある通り~~です、で終了だったのに。

深堀していくと、どうしてもおかしいな、と思う点に出会ってしまう。では、その説明にでてくる○○という単語はこういう認識であってるのか、いやその単語は英語の□□の和訳だから広義には違う意味も含まれているから…みたいな。

考えるほど難しさに出会う。思っていたより言葉はずっと不確実で曖昧で、自分の前提が何度も覆される。世間ではよくこういうときにこの言葉が使われているけど、本来の意味としてはふさわしくないのかもしれない、みたいにどんどん疑問が生じてくる。

 

学べば学ぶほど、迷路みたいに複雑になっていく。知れば知るほど、知らないことが増えていく。これが「勉強」なのか。

一つの問いに対する一つの答え。それなら覚えるだけでいいから簡単なのに。

全然違う。「わからない」がわかるようになっていく。答えにたどり着くことなんてないんじゃないかと思えてしまう。

 

いわゆる優等生ぶってきた自分には難しい状況だ。答えがないと「どうしたらいいのかわからない。」

 

どうしたらいいのかわからない、本当にそうだ。だって習ってないもん。

答えのない問いを、深堀つづけた経験なんてない。そもそも、「問いに対応する絶対解など存在しない」なんて聞いてない。

いや、なんとなく知ってたけど。少なくとも「単語の意味は言葉で説明できる」と思ってたよ私は。

そこから覆されるなんて考えてもみなかった。

もしこれが、大学の勉強だというなら、いったいどんな能力を養いたいんだろう。

どんな大人になってほしいんだろう。

 

少なくとも「優等生」になってほしいわけじゃなさそう。

とりあえずは脱・優等生かなあ。

 

じゃあまた。

性格の模索

自分の性格について考えるとネガティブな単語しか出てこない。

 

臆病、打たれ弱い、傷つきたくない、無駄にプライド高い、後回し、親頼み

面倒くさがり、怠惰、主張弱い、自信がない、、etc

 

どうしてこうなる。もっと自分にポジティブに生きてもいいはずなのに。

かろうじてポジティブな単語をひねりだすとすると、

 

常識的、自分に厳しい、感受性高い、自己愛、優しい、切り替えはやい

 

という感じか。

なんていうか、全体的に「行動しない」人間なのだ。やりたいこと、やったほうがいいこと、やるべきこと、をしない。後回しにする。取返しがつかなくなるギリギリまで。いや、本当はすでにつかなくなっている。なんとかなっているように取り繕うのが得意なだけで。

LINEの返信や、自分あての封筒の開封など些細なことも、定期テストの勉強、水道代の振り込み、パスポート申請だって「よしやろう」で行動しない。夏休みの宿題は提出直前までやらない派だ。このブログだって、思い立ってから始めるまでに半月近くかかっている。

行動しない理由をつける。正当化する。後からでもなんとかなると思い込み、明日に負債を残す。

 

 この前読んだ本に書いてあった。「若さは、一日ごとにすりへっていく才能だ」と。

 

わかってる。時間は全員に平等に与えられ、それを最大限活かす人が成功する。すでに自分とそんな彼らの間では大きな隔たりができてしまっている。自分が、第一志望の大学に落ちた理由がそこにあるのもわかってる。見事に合格していった彼らは皆「そちら側」だった。するべき努力や勉強を、当たり前のようにしていた。私には、その当たり前が、当たり前ではなかった。

 

そんな自分にほとほと嫌気がさしていたはずなのに、私はまだ何も変われてない。

最近では、もう自分はそんなもんなのかもしれないと思う。

もういいや、他人と比べず、自分の裁量を受け入れよう、と。

それでもいいかもしれない、ただ「何もしない」はよくない。

大学生。卒業すれば社会人。

いつまで「若い」でいられるのかわからない。

 

20、30年後に振り返った時、なにもない自分だったなあと思うのはいやだ。

少しでいい、無理しなくてもいい、比べなくていい、行動しよう。

停滞だけは、しない。そう生きたいものです。

 

じゃあまた。